尖っている格好良さ。身体をシャープに包み込むデッコーロウォモのドレスシャツ

decollouomo(デッコーロウォモ)のシャツは、柔軟にストレッチするのがありがたいですね。コットン100%でもナチュラルなストレッチ性があるシャツや、合成繊維のストレッチが入った布帛のシャツなどが沢山ありますが、これは全くの別物です。私は体格が良く肩周りが大きいので、服によっては窮屈に感じてしまうことがあります。しかし、decollouomo(デッコーロウォモ)のシャツは違和感が一切なく、身体を包み込んでくれるというか、ボディーラインに沿ってフィットしてくれるので、とても動きやすい。

また、開発されたというconcorde(コンコルド)素材は、サラサラしていて肌触りが気持ち良いですね。肌離れが優れているので汗をかいたときでもベトつかないですし、通気性も良いので常に快適な環境を保ってくれています。そして、洗濯しても型崩れやシワの心配が一切ない。自宅で洗濯を何回もしていますが、言われていた通り、乾いたら自然と元の綺麗な状態に戻っているんです。普段シャツを着るたびに、妻に「アイロンかけて」って頼んでいたのですが、全く必要なくなりました。妻もこのシャツは楽で良いねと喜んでいましたよ。

decollouomo(デッコーロウォモ)のシャツは、シルエットがシャープでとても綺麗。尖っている感じが格好良いですね。今のサイズ展開では幅広い皆さんには着れないものかもしれないけど、お腹をへこましてでもこれを着るんだと思って着てもらいたい。そう意識することが大事だと思います。

小学生で学んだ仲間意識とチャレンジ精神

父親は電気工事の仕事を営んでいて、会社には10人くらいのスタッフの方がいました。毎月給料日になると、母親が手料理を振舞って、父親が一人一人に給料袋を手渡しして、「今月もご苦労様でした」と慰安会をするのが恒例でした。正月などの行事になると家に人が集まったり、みんなでお酒を飲んだりという場が常にあった環境で育ったので、大人の方と接する機会も多く、小さな時から比較的外向きというか社交的な性格に形成されました。あと、2人の姉から常にチェックされていて、あれはダメ、これはダメ、と色々なことを教えられていました。自分が家庭を持つようになってから当時を振り返ってみると、家族や周りの方々から可愛がられて、幸せな幼少時代を送ってきたんだなと思います。

小学校は公立に行ったのですが、社交的な性格なので、友達だけではなく先生方とも仲が良かった。今でもたまに会って酒を飲んだりする関係です。そんな先生方から、小学校5・6年生の時に大きな影響を受けました。何か大きな行事をやるとき、普通はクラスごとに活動すると思いますが、先生同士も仲が良かったということもあって、クラスを解体して学年全体で活動するシステムを試験的に取り入れたんです。先生たちが決めた各クラスのリーダーが集まって主導し、クラスをバラして、クラス関係なく新しいグループを作るんです。生徒の中には、ハンディキャップを持つ子や内気だったりと様々な性格の子たちがいる中、一人一人の事を考えて、上手くチームがまわるようにバランスのとれたグループ作りをする。そして、それぞれのグループの役割まで決めて、ちゃんと実行する。お互いにフォローし合いながらグループ活動をしていく感じでした。時にはリーダーとしてどう責任を負うのか、と言った厳しい直面に置かれた事もありました。先生方はあえて困難な場念を作り出し私たちを見守ってくれていたのだと思います。子供の頃に2年間リーダーとしてやらせてもらい、仲間意識とか助け合いとか、フラットな底辺の目線みたいなものを学びました。

それから、その学んだことが私の中の「基準」になって、中学・高校になっても同じ姿勢で過ごしていました。自分は声も大きいし、面と向かって物事を言う性格だったので、時には周りから引かれてしまうこともありましたね。思春期の頃は、はにかみというか、わかっていても恥ずかしくて行動したり言えないことってあるじゃないですか!その中で僕はガンガン前のめりだったので!今となっては笑い話ですが、当時の同級生たちに「今でも変わらないね」ってよく言われます。そう考えると、小学校5・6年生で学んだ「基準」、あの小学校で、あの仲間たちにつくってもらった大切なものなんだなと思います。おかげで、今まで何事にも物怖じしないでチャレンジしてくることができました。

ヨットとの出会い

中学校から高校はバスケットボールをやっていました。バスケットボールを続けたくて大学へ進学することも考えていたのですが、将来、社会体育系の仕事に就きたいと思っていたので、そういう専門分野を学べるYMCA海洋科学専門学校に行きました。それからはトライアスロンを2年間やって、ヨットレースに出会ったのが21歳の頃。やってみたらどうもしっくりこなくて、もっとやってみたいとハマっていきました。それまでマリンスポーツを一通り経験してきましたが、ヨットは別格でしたね。複雑な船の仕組みを操り、自然と戯れ、風に乗る。ひどい船酔いもあいまって、満足のいくようにできない。もっともっとヨットに乗りたいと、気づいたら当たり前のようにヨットだけを欲していました。

僕は昔から何でものめり込む性格で、その環境のそばにいようとか、その渦中に入った方が良いと考えるタイプ。ヨットをやるのであれば、ヨットのそばで仕事をして、いつでもヨットに乗れるようにしようと、生活をどんどん海の方にシフトしていきました。22歳の時には神奈川県三浦半島の油壺に住みだして、平日はヨット関連会社で仕事をしながら知識や技術を身につけ、週末はレースに出場するというヨットメインの生活をしていました。いかにたくさんヨットに乗れるかにこだわった。楽しくて楽しくて、やめたいと思ったことは一度もなかったですね。

日本チャレンジ2000 - アメリカスカップへの挑戦

ちょうど僕が油壺に居座り始めた頃に、1992年・1995年とアメリカスカップに挑戦した日本チームのメンバーの方々が周辺にいたんです。アメリカスカップ(America’s Cup)は、1851年より現在まで160年以上続く国際ヨットレースの最高峰。現在では速度100kmを超える速度での参加国の威信を賭けて競い合う「海のF1」とも称される国別対抗レースで、世界中のトップセーラーたちが生きている場所です。 第一線で世界に挑戦しているセーラーの方々に仲良くしてもらって、一緒に世界転戦をしながら色々なことを教わりました。

そんな生活をしている中、1997年にアメリカスカップ「日本チャレンジ2000」のセレクションがあることを聞いて参加したんです。その結果、合格率0.64%の狭き門をくぐり抜け「AC2000」にて参戦することが決まりました。それからアメリカスカップまでの約2年半はヨット一色の生活。本格的なトレーニングをしたり、国内外でレースをやったりと毎日が充実していました。しかし、時間が猛スピードで流れていくようで、時間が幾らあっても足りない感覚。もっとトレーニングしなければ、もっとセーリングをしなければと。そんな慌ただしさのまま戦いに向かいました。

結果は、自分が目指していたポジションでレギュラーとしてレースに出場する事が出来ず、チームは挑戦艇決定シリーズであるルイ・ヴィトンカップの準決勝にて惜しくも敗退し、カップ獲得の夢は夢のままに終りました。今思い返しても一番心に残るレース。断片的に良かった事・悪かった事は覚えていますが、正直、この時のことはあまり記憶にないんです。あの頃は、とにかく視野が狭かった。もっと視野を広くもって打ち込めていたら、また違ったものを得られたかもしれない。今思えば、自分で色々なことを考える事をしていなくて、チームに入った事で満足していたのかもしれません。あの時は一生懸命 真っ直ぐに頑張っていたのだと思いますが・・・もちろん与えられた仕事をして可愛がってくれた先輩方を応援していましたが、その反面、何も出来ていない自分へのジレンマとレースへ出場しているチームメンバーらへの複雑な気持ち・・・。あまりハッピーじゃない自分がいた。

やれる事は全てやったのか?大きな疑問と脱力感だけが残りました。自分主体で動き、こなすように過ごすのではなく、貴重な時間をもっともっと噛み締めて過ごしたかった。 まだ上があることだけははっきりしている。どこまで行けるだろうか?どこまでやれるか分からないがそのために自分自身に嘘をつかずに真っ直ぐに生きたい。そんな悔しさが、セーリングでプロとして活動していくことを決意させました。

 

プロセーラーとしての決意

アメリカスカップを機に、プロとして活動すると決めて帰国したのが2001年3月。メジャーのスポーツだと、プロリーグのセレクションを受けて、そのチームに雇用されてプロとして活動する。という事になると思いますが、ヨットの場合当時はそういうものが全くないので、プロと言ってはみたものの周りがプロになったねと認めてくれるものではないし、オートマチックに仕事がくるわけでもない。逆に、「私はヨットに乗る時はお金を取りますよ。」と、自分で自分のハードルを上げなきゃいけなくなるんです。僕の場合は、ただ2000年の第30回アメリカスカップの日本代表メンバーという実績があっただけ。最初の頃は、オファーを受けてお金の話をすると、「え!?お金とるんだ。」「その理屈はわかるけど、反面そういうのってどうなの?」って言われていましたね。それを理由に断られたり、誘われなかったりすることもありました。セーラーの90%以上の方は趣味で、ヨットに無償で乗っているのが実情。残りの数パーセントの方は、ヨットを販売したりメンテナンスを請け負ったりして、その付属としてソフトを提供している。それだけ日本ではソフトを売ることが難しい。

仲間はどんどん呼ばれてレースに出て行く中、僕には声がかからないこともあって、30代半ばの頃は取り残されている感じがありました。当時、すでに結婚していて長男もいたので生活のことを考えないといけませんし、立ち止まっていても何も始まらないので、会社を起こしてヨット関係の仕事を増やしたり、仲間とチームをつくって世界へ向けてチャレンジもしました。自分で積極的に動きながら活動を続けていました。そうしていくうちに理解してくれる方や協力してくれる方が少しずつ増えてきて、仕事として認めてもらえるようになりました。そうなるまでに7〜8年かかりましたね。それからは、マッチレースで海外転戦の日々を送るようになっていき、ニューヨーク/ニッカポッカCUP優勝、2010年アジア選手権優勝、全日本マッチレース選手権でも5度の優勝など結果を出していきました。

あと、セーリングを少しでも多くの人たちに知ってもらうために、セーリングフィールドの普及活動を外に向かって積極的に行ってきました。とくに僕みたいなフリーの人間は、業界外の人たちに見つけてもらえることは難しいですからね。年齢的なタイミングもあるのかもしれませんが、40歳を過ぎてからやっと形になってきたと思っています。ユニクロのモデルから、Sail Racingやセーラーズフォーザシーのアンバサダー、レクサスのトークショーや講演などをやらせてもらったり、つないでくださった方々のお力もあって、ヨット以外の仕事もできるようになっていきました。

セーリングの魅力を自身で体現していくことが使命

セーラーとしては、今まで以上に国内外のあらゆるレースに出続けていきたいですね。40歳を過ぎてから、かなりセーリングの仕事をいただけるようになりました。現状、来年の11月まで週末のスケジュールはレースでほぼ埋まっています。今年参加していた世界最高峰のヨットレースと呼ばれる『 52 SUPER SERIES 』というヨーロッパのレースも、来年の出場が正式に決まりました。その間にも、国内レースと海外の幾つかのレースに出場することが決まっています。40歳を過ぎて体力はピーク時から見れば落ちてきていると思うのですが、船に乗っている時の気持ちの張りや集中力は昔に比べて高まっています。経験を重ねて余裕が生まれてきたのでしょうね。集中していてもリラックスしていて、長短期的に何が起こるか事前にわかるようになる。まだまだ自分自身がセーラーとして魅力を発信し続けていたい。競技者として尖り続けながら、セーリングがメジャースポーツになるために力を尽くしていきたいですね。

継続している活動が色々あります。
日本マッチレース協会は、最初に関わらせてもらったのが25歳の頃なので、もう20年くらい。途中から理事になって、会長になってからは4〜5年になります。競技者として関わらせてもらっているのですが、協会の活動の中でも力を入れているマッチレースに関しては、競技者としてではなく、次世代セーラーの育成と強化に努めています。マッチレースというものは、自分たちを今より高めるために、活躍して脚光を浴びるところ。若い次世代の子たちが、上の人たちをやっつけて「これからは俺たちの時代だぞ」っていう世代交代が行われるところなんです。我々は競技者として一つの役割を終わらせていただいて、次のセーラーたちが上がってこなきゃいけない。その新陳代謝を促すために、協会では学生から25歳までのセーラーを呼び込み、レースを運営し、sailingを継続させていくために様々な活動をしています。マッチレースに興味があり、 マッチレースをやってみたいというセーラーすべてに門戸を開放しています。全日本学生ヨット選手権大会の上位5位は招待して、あとは一般募集。たまに、一般募集から出場した雑草のような若者が、招待した強者に勝っちゃったりするんですよね。そうやって競い合いながら盛り上がってきています。また、当時の初期メンバーのセーラーたちが30歳手前になってハーバーに戻ってきているので、今度は社会経験をして成長している彼らの為にレースをコーディネートしていくことが、次の協会の仕事だと思っています。この先、5年10年後につないでいけるように。

あとは、毎年年末に東京で行っている「Feelin Ocean」というイベントが、今年で9年目。このイベントは、セーリングカルチャーを発信する活動の一環としてやっています。自分たちが若い時は東京でいろいろなパーティーがあって、そこで楽しげに遊んでいる大人たちにあちこち連れて行ってもらって、単純に面白かった。海も楽しかったし、街での遊びも楽しかった。週末は船に乗り、陸に上がってからは酒を飲んで遊ぶ。そんな彼らと時間を共にして、いろいろな事を教えてもらうのが面白かったんです。しかし、30代半ばになった時にそういう遊びが無くなってきて。主催していた方々も当時30代半ば。あれから10年くらい経って、今度は我々がその立場なんだなあと思って始めました。とくに何かの大義があるわけでもなく、ただ楽しいだけ。そんな集まりがあってもいいのではと思っています。話は戻りますが小学校で学んだこと。仲間とか、誰かのためにやるとか、人としてそれができたらいいよねっていうことをただ単純にやっているだけです。協会で育成している若い子たちも呼んで、こういう遊びも含めてヨットの世界観なんだよっていうことを伝えています。当時若かった自分たちが思っていたように、「あのオヤジたちと遊ぶの面白いな」って思ってもらえるように。自分にとってもかつてそんな存在がいたように、後輩たちにとってそんな指針でありたい。見てくれている方たちはこのイベントだけを見ているのではなく、海での活動や街でのヨット以外の仕事をしていることとか全てを含めて私を見てくださります。そうして、新しい仲間ができたり、東京で生まれる話があったり、海に戻って仲を深めたりと、ヨットを取り巻くそういった環境を大切にしています。

私にとって海と向き合うsailingは「人生」そのものです。
自分とは、仲間とは、何が大切なのか。
海は全てを教えてくれます。

伊藝徳雄

・1972年生
・プロセーラー/Professional Sailor
・元「アメリカスカップ2000」日本代表/”America’s Cup 2000″ Japanese national player

オフィシャルサイト http://igei.net/

・日本ヨットマッチレース協会 会長
・日本セーリング連盟  キールボード強化委員会 委員
・日本セーリング連盟 IRC計測委員
・日本セーリング協会キールボート強化委員会 委員
・セーラーズフォーザシー アンバサダー
・Sail Racing アンバサダー
・KAENON アンバサダー
・HARKEN japan east 代表
・葉山港町つくり協議会 委員
・葉山町商工会青年部 OB
・有限会社伊藝 代表取締役社長

<プロフィール>
プロセーラー、 元「アメリカスカップ2000」日本代表。2010年アジア選手権大会 マッチレース 金メダル。全日本マッチレース選手権大会 優勝5回。ワンデザインクラス世界選手権大会出場多数。世界最高峰のヨットレースと呼ばれる『 52 SUPER SERIES 』へは2016年、2017年に引き続き、2018年も参戦が決定。セーリングポジションは主にフォアデッキ、バウマン・ピット、ヘルムスマン。 20代前半を三浦半島、油壺にてセーリング一色で過ごす。1997年のアメリカスカップ「日本チャレンジ2000」のセレクションで合格率0.64%の狭き門をくぐり抜け「AC2000」にて参戦。その後プロへ転向し、40代を迎えた今も第一線のバウマンとして活動を続けている。セーラーとしては「キールボート」のレースが中心となるが、沖縄伝来の「サバニ」やハイパフォーマンスデインギー「モス」でのフォイリング(水中翼で浮上して帆走)など、多彩なカテゴリーでの活躍も注目されている。一方で、マッチレース協会の会長としてレースの組織化やセーリングイベントなどの立案・企画運営や、セーリングカルチャー発信のために都内で200名を超える規模のイベント「Feelin Ocean」を行うなどセーリングフィールドの普及活動にも力を注いでいる。

<記録>
・『アメリカスカップ2000』日本代表/総合4位入賞
・US Knickerbocker Cup 2008 グレード2 優勝
・Bermuda Gold Cup
・アジア選手権大会2010/マッチレース 金メダル
・全日本選手権 優勝5回
・158th NYYC Annual Regatta 2012/ディスタンスレース優勝
・J/24 NorthAmerican 2013/総合8位入賞
・52 SUPER SERIES 2015/年間総合3位入賞
・52 SUPER SERIES 2016参戦
・Japan Cup 2017/総合優勝
・52 SUPER SERIES 2017参戦
・NIPPON CUP葉山シリーズ2018 センチュリーファーストGP ハイパフォーマンスクラス 準優勝

ワンデザインクラス 全てのクラスで世界選手権出場経験あり
J24、プラト-25、メルゲス24、メルゲス30、エッチェル、ドラゴン、マム30、マム36、ファー40、GP42、TP52、その他国内外のレース参加多数


<マッチレース>
ヨットが1対1で勝敗を競うヨットレースのひとつの形式です。わずか上下1マイル程度のコースを2周する短いレースで、1マッチは20分程度で終わります。この中にはマッチレース独特のマヌーバー(戦術的行動)はもちろんのこと、ボートスピード、タクティクス(戦術)、攻撃と防御、クルーワーク(選手の技量とチームワーク)、そしてルールなど「ヨットレースのすべて」が集約しているといっても過言ではありません。そのため、マッチレースで培ったノウハウは、フリートレース(多数のヨットが同時にスタートして勝敗を競う形式)を行う上でも、ヨットレースの基礎を養うという点で役に立ちます。また、マッチレースは観戦型のヨットレースです。一般にヨットレースは陸岸から遠く離れた沖合で行われ、観戦するためには船に乗って行かなければなりません。また、フリートレースはレース展開が一般の人にはわかりにくく、どの艇がリードしているのか、その差はどれくらいなのかはっきりしません。しかし、マッチレースは陸岸の近くで行われるので岸からでも観戦でき、さらに、先にフィニッシュした方が勝つという単純なルールなので、見ていてもわかりやすいレースです。そして参加選手は総当たり戦や勝ち抜き戦を行い、誰が勝っているのか、見ている人にもわかりやすいレース展開となっています。